新型コロナウイルスが猛威を振るう中、私たちの生活は大きく変わってきました。これまで当たり前のようにできていた「出かける」ことが制限され、身体を動かす機会が減り、ロコモになるリスクも高まっています。

感染予防のため思うように運動ができないという現在の状況を含め、日本整形外科学会 松本守雄理事長、整形外科医として医療の最前線に携わる河野博隆先生、がんサバイバーである土井万菜子さんの3人に、身体を動かすことや動けることの喜び・重要性について、それぞれの視点で語っていただきました。

がんロコモとは?

河野博隆 先生

「コロナ禍の日常で多くの人がストレスを抱えていると思いますが、がんの患者さんたちは治療中、病気と闘いながら、身体をじゅうぶんに動かせないことによるロコモのリスクとも闘わなければならないんです」。そう話すのは、帝京大学医学部附属病院 副院長で、「がんロコモ」の啓発活動に取り組む河野博隆先生です。

がん患者に起こる運動器の問題には大きく3つの要因があります。1つ目は運動器に直接できるがんによる問題(骨肉腫、骨転移など)、2つ目はがんの治療によって起こる運動器の問題(骨や関節が弱くなる、筋力低下など)、3つ目はがんと併存する運動器疾患を放置することによる症状の進行・悪化(骨粗鬆症、変形性関節症など)です。河野先生は、「がんという病気は人間の気持ちを支配してしまうので、がんになると、運動器に痛みや不安を抱えていても、対処をすべて後回しにしてがん治療に専念してしまいがちです。その痛みががんによる痛みなのか、がん治療に伴って起こることなのか、もともと持っていた疾患なのか。原因を見極めないまま誰も関知しないという状況によってがん患者さんのロコモが進行し、病気を乗り越えるのと同時に大変な苦労をすることになってしまっている」と言います。

がん治療で入院生活を送る子どもたちは、小児科病棟の院内学級で国語や算数を学びます。ところが、院内学級には体育の授業はありません。治療中に身体を動かす機会が限られるため、がん治療が終わる頃には体育ができなくなっている子どもが非常に多いといいます。この点について、河野先生は警鐘を鳴らします。
「がんが治った時のことを見据えて、術前から取り組めることはあるはずです。ロコモは可逆的なものなので、きちんと対策すれば運動器の機能は取り戻せる。医療従事者も患者も意識を変えていかないといけないという思いから、がんロコモの啓発に取り組んでいます」

「歩ける」ことで人生の選択肢が広がる

土井万菜子 さん

12歳の時に運動器のがんである骨肉腫を患った土井万菜子さん。約1年間の入院生活を送り、9時間以上に及ぶ大手術とおよそ10回にわたる化学療法による治療を経験しました。幼い頃から身体を動かすことが大好きだった彼女が、「歩けなくなるかもしれない」と告げられた当時のことをこう振り返ります。
「そのときはあまり実感が湧かず、『きっと大丈夫だろう』という気持ちしかありませんでした。幸い、私の場合は化学療法が有効で、右下肢を切断せずに済みました。ただ、手術後3カ月間はベッドから動くことができなかったので、その間に両足の筋肉が落ちて細くなってしまって……」

リハビリを始めた当初は、車椅子からベッドに移るだけで疲れてしまい、立ち上がる練習でも数秒持ちこたえるのがやっとだったそう。土井さんの治療にあたった河野先生は、手術の内容などから、日常生活に支障なく歩けるようにはなっても、スポーツができるまでに機能が戻ることは予想していなかったといいます。土井さんは前向きな気持ちでリハビリに取り組み、退院時には一人で杖をついて歩くことができるように。その1年後には、部活動の卓球を再開できるほどにまで回復しました。
「今では普通の人と同じように運動ができます。登山やスキーもしますし、ボルダリングを楽しんだりもしています」

土井さんは、小学5年生から始めた卓球を大学時代まで続け、現在は薬剤師を目指して勉学に励む日々。「歩ける」ことは、充実した学生生活にはもちろんのこと、将来のビジョンにも大きく影響していると言います。
「もし歩くことに障害が残れば、将来の職種が制限されることもありましたが、日常生活を問題なく送れることで人生の選択肢が広がりました。志望している医療分野の仕事は体力勝負なので、今はもっと体力をつけなきゃいけないと思っています」

「『がんロコモ』と聞くと、高齢者向けの概念のようにとらえられがちですが、小児科でも大人の領域でも、同じように問題が起こっているように感じます。がん患者さんの運動器はがん診療医と整形外科医、両方の領域がオーバーラップして診るべきものなのに、実は相手が診ていると思ってまったく抜け落ちているというのが現実です」と河野先生。土井さんの治療やリハビリを行っていた当時にはその発想がなかったと省みながら、多診療科が連携して患者の痛みや不安を解決し、チーム医療で生活支援に取り組んでいくべきだと強く語ります。

退院から約1年後、中学3年生の夏には仲間とともに卓球の大会にも出場(左端が土井さん)

ウィズコロナ時代の暮らしと
「がんロコモ」の危険な共通点

松本守雄 理事長

松本守雄理事長は、がん患者が抱える運動器の問題に対し、これまで整形外科医の間でも「がんが治ってから何とかしよう」という意識が強かったといいます。発想の転換が必要だとし、「現在は通院治療などでがんと共存している方もたくさんいます。膝や腰に不安がある場合、早く適切に対処することで、病院に通うことの困難を軽減できると同時に、治療の選択肢も広げられます」と力を込めます。

こうした運動器の機能管理という点で、コロナ禍で家にこもりがちな一般の人々が、実はがん患者と同じようなリスク下にあることを松本理事長は危惧しています。
「感染を恐れて外出を控え、今は身体を動かせなくても仕方ないと室内にじっとしていたり、膝や腰が痛くても治療を受けるのをやめてしまったりする方が少なくありません。これは、がん治療中の患者さんが運動を制限される状況と非常によく似ています。ウィズコロナの時代が続くと、運動器の病気が重症化してロコモの状態が悪化する人がますます増えてくるのではないかと心配です」

また現在、コロナ感染者に対応するため、世界中の病院で多くの手術がキャンセル・延期を余儀なくされています。命に直接関わらない整形外科の手術のキャンセル率は感染のピーク時にはおよそ82%とする推計もあります。この間に運動器の状態が悪化し、ロコモがさらに進行してしまう危険もあるのです。「このことは医療従事者も一般の方々も意識しておく必要があり、しっかりと対応していかなければなりません」と松本理事長。家にいてもできる運動や、人と十分に距離を保てる屋外の場所でのウォーキングなど、意識的に身体を動かすことを心がけてほしいとうったえます。

がんロコモ対策は患者の人生を変える

「がんロコモ」の考え方は、がん患者の移動機能への向き合い方を変える新たなアプローチです。がん患者が自分の足で立って歩けることは、Quality of Life(生活の質)を維持することだけでなく、治療の選択肢を広げ、がん自体にも影響するという視点が必要だと河野先生は言います。
「整形外科医はがんを直接診ることはできなくても、運動器を適切に診療することによって、がん患者の生活が大きく変わるんだ、ということを伝えていきたいですね」

がんロコモの解決に向け、整形外科医、がん医師、患者それぞれに向けた書籍やツールを通じて正しい知識を提供しながら、整形外科医の専門性を活用し、がんであっても「動ける」ことを考える連携医療の実現を目指しています。

  • かわの ひろたか
    河野 博隆

    1992年東京大学医学部を卒業後、同大学附属病院整形外科研修医、医局長などを経て、現在は帝京大学医学部附属病院副院長、同大学医学部整形外科学講座主任教授、同スポーツ医科学センター長を務める。骨軟部腫瘍とがん診療における運動器マネジメントに取り組む。

    1992年東京大学医学部を卒業後、同大学附属病院整形外科研修医、医局長などを経て、現在は帝京大学医学部附属病院副院長、同大学医学部整形外科学講座主任教授、同スポーツ医科学センター長を務める。骨軟部腫瘍とがん診療における運動器マネジメントに取り組む。

  • どい まなこ
    土井 万菜子

    慶應義塾幼稚舎6年生の終わり頃、骨肉腫に罹患していることが判明。治療を行いながら、慶應義塾中等部・慶應義塾女子高を経て、慶應義塾大学薬学部薬学科在学中。がん治療に関心があり、インターンとして国立がんセンターの希少がんセミナー運営に参加した経験もある。

    慶應義塾幼稚舎6年生の終わり頃、骨肉腫に罹患していることが判明。治療を行いながら、慶應義塾中等部・慶應義塾女子高を経て、慶應義塾大学薬学部薬学科在学中。がん治療に関心があり、インターンとして国立がんセンターの希少がんセミナー運営に参加した経験もある。

  • まつもと もりお
    松本 守雄

    1986年慶應義塾大学医学部を卒業後、同医学部研修医、同整形外科学専任講師、助教授を経て現在は教授、慶應義塾大学病院副病院長を務める。専門は脊椎・脊髄外科。日本整形外科学会理事長。

    1986年慶應義塾大学医学部を卒業後、同医学部研修医、同整形外科学専任講師、助教授を経て現在は教授、慶應義塾大学病院副病院長を務める。専門は脊椎・脊髄外科。日本整形外科学会理事長。